宮城県の東日本大震災の被災者からの声
[東日本大震災]の被災者の方達の悲痛な叫びは、日を追うごとに色々かたちで
表れています。
主人や二歳の可愛い子供と別々に暮らしながら、自ら被災地でボランティア活動を
続けている女性が「かんたん着付け資格指導員」の講座に見えました。
厳しい現実に目をそらすことなく、直深く「日本文化」の必要性を感じるという、彼女に
大変大きな感銘を受けました。
彼女(打越月見さん)の了解を得て、下記のレポートを皆様にご紹介します。
宮城県から東京へ、6月に着付けを習いに来ました。(打越 月見さん)
うちは内陸部なので東日本大震災では津波の被害はありませんでしたが、外国人である夫は震災の数日後に出された国外退去勧告を受け2歳の子を連れて母国へ帰り、その日以降私は一人で暮らしています。
震災から2週間目で電気、水道が戻ったものの、石油や灯油が買えない状況は1ヶ月ほど続きストーブはつけられませんでした。
食べ物が乏しい上に室温が氷点下で体温が上がらず、苦しい状況がしばらく続きました。
4月の最大余震では家がバキバキと音を立ててよじれるように揺れ、再び停電、断水。夜中だったということもあり、生きた心地がしませんでした。
そして親戚、知人の安否確認で訪れた石巻ではあまりにも辛い情景が繰り広げられており、訪ねた方が生きていたことですら素直に喜べないような有様でした。
避難所では栄養が乏しく、物資は不足し、人手も足りない。
街はかつての面影をとどめず、街全体が大きな瓦礫となり深い悲しみに包まれている。
そんな光景を目のあたりにし、そこに一歩足を踏み入れた日からその地を去ることができず、いままで継続的に直接支援を続けています。
支援していると言っても実際は私もかなり慰められたし、人同士のもたれ合いが「人」という文字を形づくるという理屈が、今はしっとりと心になじんでいます。
東日本大震災以降さまざまな理由で私は宮城に残ることを選択しましたが、今は沿岸部が目指すものと同じく一日も早く自分の日常を取り戻したいと思っています。今は何が何でも宮城に残るという気持ちが和らぎ、秋には家族の待つ土地へ移り、新たな歩みを進めることを決めました。
引越して落ち着いたら専門である日本画の仕事も再開する予定ですが、日本の復興に力を添えたい気持ちと日本文化の継承に貢献したい思いが徐々に強くなり、5月末にたまたま見つけた三宅先生の着付け講習を殆ど衝動的に、まったく後先を考えずに申し込みました。
お稽古初日、ちょっと緊張しながら先生の所へ伺うと、そこはめくるめく着物ワールド。
子供の頃から着物が好きで短期間着付けを習ったこともあり、震災前はよく着ていましたが、今回三宅先生に習って本当に良かったです。
先生の的確なご指導を受けた今は、自信を持って二重太鼓を結べます。
それと、全くの初心者という方がお稽古の初日に二重太鼓を結べるようになっていたことにとても驚きました。
「難しいのは初心者には無理」という概念、「どうせできるわけがない」という視点は多かれ少なかれ誰にでもあるとは思いますが、それに縛られていたのでは時間がいくらあっても足りない上に、せっかく持ち合わせている能力に蓋をすることにもつながります。
指導の成果というものは、指導を受ける側の能力を引き出す指導者の裁量にも関わることでしょう。
私も人様に着付けを指導する際には、心してかかろうと思います。
三宅先生には、着付けには巷にあふれている様な沢山の道具は不要であること、初心者であっても着付け中に鏡を見る必要はないことといった技術的な教えだけではなく、困難に対峙した時は必ず乗り越えられるのであり、その経験の一切が今後の役に立つということを含めたお話には多大な勇気を頂きました。
着付けを習った3日間は私の被災休息(?)でもあり、日本の文化に思いを馳せる非常に充実した時間でした。
今後、日本の地を離れても日本人としての文化伝承をはじめ、日本復興へ向けた努力を惜しまず続けていこうと思います。
ありがとうございました。